Arlington National Cemetary
アーリントン国立墓地。1864年、南北戦争以来、現在までの戦没者、テロ犠牲者等がかなり広大な敷地内に葬られている。敷地内にある無名戦士の墓(Tomb of the Unknowns)の前では、定期的に衛視が警備する中、各戦役の戦士を悼む式典が行われる。合衆国海兵隊記念碑(Marine Corps War Memorial)は、アメリカ海兵隊戦没者を追悼する記念碑であり、あくまでも硫黄島を占領した事実を個別に記念するものではない。題材が象徴的な碑であるため、見る人によって大きく印象が異なるのは否めない。(Nov 2008)
National Portrait Gallery & Museum
The National Air & Space Museum
緊急金融サミット
世界的な経済不況について対策を協議する緊急金融サミットが米国の招聘で開催されるため、各国の要人が開催地D.C.に続々入ってきていた。警備もいたるところに。トウブハイイロリスがいるのに気がつきます?(Nov 2008)
Kennedy Center
ホールコンサートを2回も鑑賞できた。2回ともジャズだったが、うち1回はワシントン出身のピアニストDuke Ellingtonを讃えての地元ジャズオーケストラ演奏。彼が立ち上げたオーケストラは今も活動中である。(Nov 2008)
J.F.Kennedyの塑像 |
フォード劇場とリンカーン大統領
Supreme Court
National Capitalから徒歩数分で到着。米国司法最高峰にあたる場所。物々しい警備も全くない。ゆっくり階段を上がり扉に触れる。驚くほど人影が無い。これが日本であれば、用もないのに最高裁判所の扉まで自由に入れるはずはない。
米国建国の理由にもなったという、1215年イングランドで制定されたマグナ・カルタ(大憲章)の彫刻がある。(Nov 2008)
米国建国の理由にもなったという、1215年イングランドで制定されたマグナ・カルタ(大憲章)の彫刻がある。(Nov 2008)
National Capital
Equal Justice Under the Law
D.C.には、過去の大戦に伴う、米国内の日系米国人強制収容所での苦難と差別に対する自由を訴えた「全米日系米国人記念碑」がある。
昭和17(1942)年、ルーズベルト大統領発布の大統領令により、西海岸居住の日系米国人12万人が理由もなく13ヶ所の強制収容所(キャンプ)に収容された。日系と言うだけで敵視され、戦争下では大統領、議会、最高裁により収容を正当化した。
昭和17(1942)年、ルーズベルト大統領発布の大統領令により、西海岸居住の日系米国人12万人が理由もなく13ヶ所の強制収容所(キャンプ)に収容された。日系と言うだけで敵視され、戦争下では大統領、議会、最高裁により収容を正当化した。
米軍部は当時、日系人をアメリカ化のためのテストを行い、アメリカに忠誠を誓った者達3万人強が志願して戦場へ。欧州戦線でめざましい戦果を残した連隊は、後に多くの勲章を授与されたことも知られている。
収容所名とその人数 |
1988年、レーガン政権時、日系米国人に対して謝罪と賠償が行われ、記念碑に、
Here We Admit A Wrong Here We Affirm our commitment As A Nation to Equal Justice Under the Law:我々は過ちを認める。国として法のもとでは平等であることを断言すると記された。
これら事実があったことを知っておくべきで、必要に応じ後世に伝えていかなければならない。(Nov 2008)
謝罪の言葉 |
経緯 |
有刺鉄線が絡まり傷ついた2羽の鶴 |
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